この感覚を伝えるのは難しい
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身体の中に2つの自分があり、いつもそれで揺れている。
一方は、どんな場合でも良識ある行動しようとする自分。
もう一方は、社会的に許されないことを積極的にやろうとする自分。
旅に出る前は、良識ある行動をしようとする自分が99%を占めていた。
ゴミはきちんと分別して出していた。
どんな小さな紙切れでもポイ捨てするなんてことは一切なかった。
ところが旅に出てからというもの、ビール瓶と生ゴミを一緒の袋に入れて捨てたり、
楽勝でタバコをポイ捨てしている(場所によるけど)。
これから書くことはたぶん他の人には理解してもらえないのではないかと思う。
この微妙な気持ち、感覚は文章にすることが難しいから。
ぼくが社会的に許されない行動をとるとき、ぼくはわざとそれをやっている。
「面倒くさいから」とか「欲望に流されて」とかっていうことは100%ない。
タバコを吸い終わって携帯灰皿にいれることなんてのは、全然面倒くさくない。
携帯灰皿を持っていなかったら、消して箱とフィルターの間に挟んでおけばいい。
それでもぼくはわざとポイ捨てをする。
いたって冷静に、むしろ堂々と。
こんなことがあった。
カオサンの安メシ屋で山ちゃんとビールを飲んでいた。
タバコを吸っていた山ちゃんは店員に、「コーティーキアブリードゥアイナ」と言って、
灰皿を持ってきてくれるように頼んだ。
ところが店員は「マイミー(ないよ)」と言った。
山ちゃんは、「んじゃ、どうしたらいいんすかね」とぼくに言った。
すると店員は、店の床に捨てろ、というジェスチャーをしたのである。
そんな店って日本にあるか?
また、そんなことをしてる客を見たことがある?
タイでは営業が終わった店内や店の前は吸殻やゴミで散らかりまくっている。
(さすがにデパートやマクド、スタバなんかは違いますよ)
だから閉店後や開店前にきっれーに掃除をする。
どうせみんな捨てるんだから、おまえも捨てろ。
どうせ閉店後片っ端から掃除するんだから、お前が吸い殻の1つや2つ捨てても問題ない。
これはカルチャーショックだった。
これまでのぼくにはない感覚だった。
そしてぼくは、「ポイ捨てしたらどんな気持ちになるんだろう」ということに興味をもった。
意味不明かもしれないが、ぼくにとっては重要なことだった。
ぼくは昔から教えられてもだめで、実際自分でやってみないと納得できないことが多かった。
「西風が吹いとったら釣れへんで」と漁師のおっちゃんに言われても、わざと釣りに行った。
「ジャスコまでは遠いでバス乗っていき」と言われても、わざと自転車で行った。
ぼくが大切にしているのは、いつも「感覚」だった。
自分で実感できないものは、なかなか信じられなかった。
だからポイ捨てしたことがなかったぼくは、「やったらどうなんねやろ」と純粋に興味がわいた。
やってみたが、別にどうってことはなかった。
でも、それでやっと納得できた。
自分でも、「コイツ、けったいな奴やなぁ」と思う。
チェンマイに行った時のことだ。
バイクを借りて、何人かで滝を見に行った。
水辺で涼んでいると、旅慣れてそうなAちゃんがイケナイ草を取り出し、ジョイントにして
吸いはじめた。
みんなでまわしていて、ぼくのところでもうなくなりそうだったので、「捨てるで」と言って
ポイ捨てした。
するとAちゃんは、「そこに捨てちゃだめ!信じらんない」とぼくに言った。
ふーん、違法な草はパカパカ吸うのに、ポイ捨てはアカン、か・・・。
ぼくはしらけてしまった。
Aちゃんとは一緒に旅はできないなと思った。
ぼくにはその感覚がわからなかったからだ。
Aちゃんの言い分はわかる。
コカインやヘロインなどのケミカルドラッグと違って、はっぱはナチュラルだから
中毒にならない。
法で禁止されてるけど、人体への影響はタバコより少ないよ。
でも、ポイ捨ては環境に悪いでしょ。
Aちゃんの言ってることはわかるけど、Aちゃんの感覚はわからない。
あとになって、これは「美意識の問題」だと思った。
ハッパを吸うことはAちゃんの美意識の中ではOK。
でも、ポイ捨てはAちゃんの美意識にひっかかる。
ただ、それだけのことか、と思った。
地球環境のことなんてこれっぽっちも考えてないんやな。
さて、ポイ捨ては割と小さな問題かもしれないが、ゴーゴーバーやテーメーカフェに行くことは
ぼくにとっては大きな問題だった。
あそこは要するに売春をするところである。
良識ある自分は、「あんなとこ絶対行ったらアカン!」と強く引きとめていたけど、
非常識なことを積極的に推進するもう一人の自分は、「行ってみやな何にもわからんで」と
強く行くことを勧めてくる。
やっぱりぼくは、「あかんことは重々承知。でも、あえて行ったらぁな!」となってしまった。
そしてさらにたちの悪いことに、「行くんなら半端に行ってもしゃあないで。とことんまで
いってまえ!」ということになるのである(やっぱアホやわ)。
ぼくの尊敬している人で、作家の灰谷健次郎という人がいる。
この人の子どもを見る目、人間を見る目は、どこまでも優しい。
その優しさはどこからきてるかというと、灰谷自身が絶望を乗り越えてきているから。
兄の自殺、自身の睡眠薬中毒、女にたかって生活する日々。
でも、落ちるとこまで落ちたとき、優しくなることができた。
人のせいにしたらあかんけど、ぼくも手を出すなら中途半端はあかん、灰谷健次郎みたいに
とことんまでいかな何にもわからへんのとちゃうか、って思った。
それからぼくはバンコクの夜の世界に深く深く落ちて行った。
心の底にはとても冷静な自分はいたけれども。
そして、ぼくのゴーゴーバーに行くべきかどうかということも、尊敬する灰谷健次郎の名前を
出してきて、その優しさに満ちた生き方と自分のちっぽけな悩みを重ねて考えてるあたり、
結局自分の美意識レベルのことなんやと思った。
そやから自分の納得できるように、いつもみたいにやってみたらええやん、と投げやりな
気持ちも少しあった。
2ヶ月後。
プンちゃんとハーブがネパールから帰ってきたとき、プンちゃんは言った。
「myちゃん、なんでそんなにタイ語上達しとるん!?めちゃ優秀な生徒さんやな~」
タイ語は飛躍的に上達していたし、パッポン、ナナプラザ、ソイカウボーイなどの
ゴーゴーバーに毎晩通って少しは詳しくなっていた。
バンコクの夜学では無遅刻無欠席、超優秀な成績を修めていたのだった。
なんか今日は書いてて訳がわかんなくなってきました。
ムツカシイなぁ・・・。
まぁ、いろいろと小難しく考えて、いきがってるだけやと思います。
もう酒飲んで寝ます。